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月刊現代2月号の記事全文をHPに掲載しました。

宴の裏で悪魔が微笑んでいた――。

 元社長、岩崎琢弥氏がこの有名なセリフを吐き、トップの座を退いて14年。今、バブル期を上回る空前の活況に沸く証券業界にあって、損失補填や暴力団との取引、そして総会屋への利益供与への反省から「誠心誠意の」という意味の「コーディアル」という言葉を冠し、再出発したはずの日興コーディアルグループ(以下日興)に元気がない。05年9月期中間決算の経常利益をみても、日興は556億円。首位・野村証券の3分の1、2位・大和証券の3分の2の水準に甘んじている。なぜ、日興だけが他の証券大手のように力強く浮上できないのだろうか。
 実は、いま筆者の手元には日興の膨大な社内資料がある。段ボール1箱分近いその資料には、暴力団との関係や損失補填事件の裏側について社内調査したメモなど、日興の封印してきた過去が克明に記されている。その極秘資料をもとに社内外の関係者に取材した結果、こうしたスキャンダルへの現経営陣の関与、さらには05年3月期決算への疑問などが浮上してきた。いまなお日興を呪縛し続けるタブーを、これから明らかにする。

 系列企業によるゴルフ会員権預り証の購入、巨額の融資、東京急行電鉄株の買い集めの受注、絵画の仮装売買、そして債務不存在確認訴訟……。
 1990年春に「証券スキャンダル」が発覚して以来、日興は折に触れて、指定広域暴力団の稲川会との取引の存在を糾弾されてきた。日興はそのたびに、金融当局やマスコミに対し、継ぎ接ぎだらけの釈明を繰り返してきた。そんな日興が、これだけはやっていないと徹底的に疑惑を否定したのが、暴力団への「利回り保証」に基づく「一任運用」の存在だった。だが、私の手元にある社内資料は、それさえ虚偽だったことを示している。


稲川会会長との蜜月

 稲川会との取引の端緒は、20年以上も前に遡る。きっかけになったのは、社内資料によると、「82年の商法改正だった」という。この改正は、総会屋に対する利益供与の禁止が目玉だった。そして、利益供与を断ち切った日興の株主総会は、この年はもちろん、翌年も大いに荒れたのである。
 その結果、日興のトップは間違った決断を下す。84年秋に、あるベテラン総務部員を、大宮支店の営業部門から本社総務部の株主総会担当に呼び戻す人事を断行した。このベテラン部員A氏は、後に総務部長に昇進するが、総会屋・小池隆一氏への利益供与事件で逮捕され、有罪判決を受けることになる人物だ。だが、関係者らは、当時のA氏が「トップの期待を知り、会社人間としての使命感″に燃えあがってしまった」と振り返る。裏社会とのトラブルを抑える狙いで、その世界に顔が利く人物たちとのパイプ作りに猛進してしまったのだ。
 中でも、日興が一番の大物と期待していたのが、稲川会の石井進会長(故人)だった。社内資料や複数の日興幹部OBらの証言によると、A氏は稲川会を重視した理由を「児玉誉士夫が亡くなったあと、(ライバルの証券会社が)裏社会の押さえとして石井会長に接近していたからだ」と繰り返し説明していたという。
 ただし、A氏は、いきなり石井会長と取引を始めたわけではない。まずは85年ごろ。都内に事務所を構えていた稲川会の有力組長に対し、新規公開株や新発転換社債の優先的な配分を開始したのが端緒だった。これらは、当時の右肩上がりの株式市場では、必ず儲かり、リクルート事件でも「濡れ手に粟」と称された金融商品だ。
 続いて、A氏は、石井会長の秘書として、会長の個人資産の管理・運用を担当していた人物や、別の稲川会幹部らとのコネクション作りに成功した。A氏は、日興証券本店営業部に、彼らの個人名義の証券取引口座を次々と開設した。そして、86年9月4日。石井会長の本人名義の口座開設に辿り着いた。
 石井会長名義の口座の取引実績をみると、88年までに、三菱商事(19万株)、NEC(15万株)、東京ガス(29万株)、東急車輛(12万株)、新日鉄(30万株)などの株式が売買されている。
 87年6月、取引は、新たな段階に進む。A氏は、当時の関東地区担当役員や本店営業部長、担当課長らと相談のうえ、稲川会系の二つの有限会社『世信(せしん)』『絆堅(はんけん)』名で法人取引口座を開設した。投入された資金は、『世信』が5億円、『絆堅』が10億円と大きい。
 そんな『世信』と『絆堅』に、最初のトラブルが生じたのは、87年秋「ブラックマンデー」のころの株価急落である。このとき日興は、とんでもない荒技を使う。資料によれば「買い付け後に大幅に値下がりした松下電産株の購入を取り消し」、損失の発生を防いだというのだ。
 このころ、日興と石井会長サイドの関係が実に緊密だったことを資料は明かす。石井会長の秘書は、週に4、5回の割合で、日興証券兜町支店(現日興コーディアルグループ本社)を訪ねていた。そればかりか、年末年始の時節の挨拶などの形で、数名の常務、専務クラスが、石井会長の自宅を訪ねて面会していた。この中には、岩崎p弥氏の後継社長となる高尾吉郎氏まで含まれていた。日興と石井会長の関係は抜き差しならないものになっていたのである。
「 超極秘」という印が押され「稲川会関係報告書」と銘うたれた98年2月3日付の社内ファイルには、日興の元本店営業部長のこんな悲痛な述懐が記されている。
「就任早々、7人で新旧交代の挨拶で石井会長の自宅に行った。石井会長の印象は大学教授のようで、当時の梅村(正司日興証券)会長を連想した。稲川会の巨大さを聞き知ってびっくりして拒絶反応を感じた。ほかにも170もややこしい口座があり、本店営業部長という役員が懸った役目があまりにも想像していたのと違って戸惑いや苛立ちを感じた。
 A氏に不満をいうと「これから国際化が本格化すると、当社もこの世界の人たちに対マフィア対策上、助けてもらうことになる。これは会長も社長も知っているといわれた」

国会証言とは裏腹に

 89年4月11日。石井会長名義の口座を使って、東京急行電鉄株の買い集めが始まった。後に、新聞や雑誌が大きく報じる「東急株買い占め事件」である。
 東急株の買い付け資金の調達には、日興グループも協力した。最大200億円に達した日興クレジットからの融資や、グループ企業が購入した稲川会関連のゴルフ場「岩間カントリークラブ」の会員権預り証の代金20億円などが、それである。「会員権」ではなく、「会員権預り証」というのは、岩間カントリークラブが当初、パブリック向けのゴルフ場として開場することなどから、打ち出された奇策であった。
『 世信』『絆堅』に話を戻そう。外部には存在が秘密にされていた、この2つの口座は、毎月の利益を出すため、評価益の出た株式を売却する取引を繰り返していた。この結果、残されたのは下落した株式ばかりで、90年暮れから91年初めにかけて、両口座の損失は放置できない水準になりつつあった。信用取引で8億5000万円もの立替金が発生し、この回収が済まないと、証券会社としても、これ以上、取引を続けるわけにはいかない状況に陥ったのだ。
 そして91年夏、「火砕流」と呼ばれた「損失補填事件」や稲川会に対する融資、岩間の預り証問題が発覚する。このスキャンダルで社長を辞任した直後の岩崎琢弥・副会長(当時)は「証券金融不祥事国会」で証人尋問に立ち「ただちに暴力団との取引を打ち切る」と断言した。しかし、日興には、『世信』『絆堅』の信用取引の立替金を回収して、両口座を閉鎖できるような人物はいなかった。トップの国会証言に反して、両口座は存続したのである。
 それにしても、なぜ、日興は立替金の返済を強く迫れなかったのか。取材を進めると、暴力への恐怖だけでなく、持ちつ持たれつの関係も浮かび上がってきた。ある産油国の王族接待を巡るスキャンダルもそのひとつである。


AV女優接待で叙勲を狙う

ブルネイ王族の売春接待スキャンダルを覚えている方も多いだろう。93年秋から翌年初めにかけて、この接待は、日興のライバル証券が実施したものとして大きく報じられた。産油国ブルネイの王族接待のため、この証券会社が、日本人女性を産油国に送り込んでいたとして週刊現代などの週刊誌誌上を賑わせたのだ。送り込まれた女性の中には、有名なAV女優もいたことも話題になった。
 しかし、このスキャンダルには、隠された真相があった。この接待は、日興証券がライバル社に先がけて仕掛けたものだったというのである。
 日興の内部資料によると、接待が実際に行われたのは、89年2月末ごろ。産油国の王族たちが、昭和天皇のD大喪の礼Eに参列するため、来日したときのことだった。場所は、東京・赤坂の高級ホテル。資料によると「上階3階を借り切り、7人の王族らに対し、AV女優ら7人を にわたって世話した」という。これに気付いたライバル社が、産油国での接待により巻き返しを図ったところ、このライバル社のケースだけが表面化したのだった。

「ルノワール事件」

 岩崎副会長は、前述のように、91年夏の国会証言で「暴力団との取引を直ちに打ち切る」と絶縁宣言した。にもかかわらず、日興は稲川会と抜き差しならない関係をつづけ、『世信』『絆堅』の両口座は存続した。多くの役員が稲川会幹部と面識があったうえ、女性スキャンダルの後始末まで依頼しており、とても取引をやめたいなどと言い出せる立場になかったのである。
 91年秋に石井会長が死去した。日興がようやく重い腰をあげて、立替金の回収に動いたのは、翌92年の暮れになってからのことである。このころになると、日興は、翌年に予定されていた大蔵省の検査で、『世信』『絆堅』の2口座が存続していることが露見するのを恐れていた。そこで日興は、一計を案じる。稲川会から物品を購入し、その代金で立替金を弁済してもらう方策を持ちかけた。
 そこで選ばれたのが、『絆堅』が保有していた、ルノワールのD壷に活けた菊Eという絵画だ。「西武ピザがサザビーズのオークションで新潟の美術館から競売価格13億5000万円で競り落としたのを、『絆堅』が購入した」という触れ込みの絵画で、これを日興が9億6000万円で購入し、その代金で信用取引の立替金の精算を受けたというのだ。
 しかし、こんなことで問題が解決するわけがない。稲川会は『世信』『絆堅』の2口座はもともと利回り保証付きであり、稲川会が損失をかぶる必要はないと信じていたからだ。絵画の譲渡、立替金の精算は、大蔵省による検査を乗り切るための対策として、日興に依頼されたから応じた仮装売買に過ぎないとも考えていた。だから、日興に対し「利回りの保証を早く履行して『世信』『絆堅』の運用成績を改善するだけでなく、絵画を返却してほしい」と要求し、紛争の火ダネとして残った。
 進退窮まった日興は98年、稲川会に対する債務不存在の確認を求めて提訴する。ついに『世信』『絆堅』の存在が法廷という公の場で明かされた。そして、05年6月に日興証券は勝訴している。
 しかし、この法廷での日興の主張を覆がえすような社内資料がある。先に紹介した『稲川会関係報告書』というファイルだ。そこには「(ライバル証券会社の)ディーラー歴30年のベテランが一任で派手に儲けてくれるので、日興にも設定してほしい」と稲川会から持ちかけられた経緯が記されている。「当然、趣旨は任され運用」「(担当者が)保証商いだと認識している」とまで明記されている。
 日興は16年間にわたり、金融当局、マスコミ、法廷で、稲川会への「利回り保証はない」と釈明し続けていたが、真相はまったく違っていたのである。
 余談だが、当時、産経新聞が、ルノワールの絵画取引の存在をスクープ。売買価格が「高過ぎるのではないか」と指摘したことがある。
 しかも、今回明らかになった資料によると、「サザビーズが、問題の絵画がオークションで競り落とされた記録がないとしている」という。当時の複数の日興幹部も、筆者の取材に「製作年代や絵画所有者の履歴から見て、この絵画は贋作だった」と口を揃えている。

もうひとつのスキャンダル

 稲川会との取引を巡る現経営陣の責任については、後述する。もうひとつの重大なスキャンダルを明らかにしよう。
 98年9月21日。二つの利益供与事件に関わったとして、日興証券と同社幹部は、東京地裁から有罪判決を受けた。一つは、自殺した自民党の新井将敬衆議院議員への利益供与事件。もう一つは、総会屋グループ代表の小池隆一氏への利益供与である。
 簡単に判決内容を記すと、両方の事件で、商法違反と証券取引法違反に問われたのが、平石弓夫・元副社長と浜平裕行・元常務である。2人は懲役1年(執行猶予3年)の刑を言い渡された。さらに別の元副社長ら2人が小池事件のみを問われ、懲役10ヵ月(執行猶予3年)の判決を受けた。そして、法人としての日興証券は罰金1000万円という量刑だった。
 日興の被告たちは、法廷で争わなかった。第一勧業銀行(現みずほ銀行)や野村、大和、山一の各大手証券も小池氏への利益供与に問われたが、日興はそれらの裁判のトップを切って判決を受けている。
 もちろん法律違反は法律違反として厳しく断罪されるべきだが、同じように罪に問われた他の4つの金融機関に比べて、日興の小池氏への利益供与額は1400万円と極端に少ない。第一勧業銀行は迂回融資で117億円、野村証券は3億7000万円、大和証券は2億300万円、山一証券は1億700万円を供与した。これに対し、「日興の罠にはまった」の言葉を残して自殺した、新井代議士への供与額2900万円を加えても、日興の利益供与額は多いとは言えない。
 しかし日興は、2人の元副社長の首をそうそうに差し出した。実は、ここにも社内で「極秘」扱いになり、封印されてきたタブーがある。その資料も筆者の手元にある。

逮捕された副社長のメモ

「10月21日 13時00分 K検事へ出頭。
●浜平のスタンス、これからどうするのか聞かれる。事実は事実として申し上げる。あとは裁きを受ける。
●逮捕状 平成6年2月から平成8年12月 株式部長在任期間中。
 総会屋の窓口としてとりしきっていたAから『小池の株式運用で損が出ているので困っている。このままだと今年の株式総会の円滑な進行が心配である。何とか儲けさせてほしい』と言われた。A他数人と共謀して、口座に株式をつけかえて利益を出した。コンピューターを不正に利用して、(中略)不正をはかった」
 こんな生々しい記述で始まる資料がある。浜平元常務が裁判に先立ち拘置所内で付けていた日記とも手記ともいうべき62枚に及ぶ手書きのメモのコピーだ。そこには取調べの様子が克明に記録されているとともに、彼の苦悩が手にとるように書かれている。
「(利益供与した)口座が仮名口座で、実は小池のものであり、損失が出ていたとは知らなかった」
「無罪の可能性があるのではないか」
「ほかに大きな事件がありそう。否認を続けると、捜査が拡大し会社に迷惑がかかる。会社が潰れるかも?」
「会社の犠牲になることは、家族が納得しない。妻の理解が必要」
「その場合、一人だけ孤立して、予想される代表訴訟を戦わなければならず、破産しかねない」
 浜平元常務の苦悩は、最後まで自己の主張を貫くか、それとも、会社のダメージを最小にするのに協力するか、という点に絞られる。自己防衛と周囲からの犠牲になれという圧力に悩み続けた記録と言える。
 それにしても、浜平元常務が、捜査が拡大すると会社が潰れると考えた、ほかにもある「大きな事件」とは何か。実は、これが日興社内でいまも封印されているタブーである。「第2ルート」と名付けられた、別の総会屋事件が存在したのだ。
 日興の元総務部長、A氏は、小池氏以外の総会屋とも関係があり、この総会屋にも総会対策を依頼し、その工作資金や謝礼を支払っていたのだ。結果的に、浜平氏はその隠蔽に協力したのである。
 ここで、この「第2ルート」の総会屋B氏と日興の関係を解き明かす前に、日興が総会屋との関係を深めた背景を整理しておく必要がある。
 82年の商法改正以降、日興では2年続けて株主総会が荒れ、当時の最高幹部の意向で、総会対策のベテランであるA氏が総務部に呼び戻されたのは前述した。
 84年秋、当時9月決算で、年末に株主総会を控えていた日興を震え上がらせる一通の質問状が舞い込んだ。この質問状の主が、98年になって、日興などから利益供与を受けたとして有罪判決を受けた総会屋の小池隆一氏である。
 質問の内容は、当時、日興社内で騒動になったスキャンダルに関するものである。このスキャンダルは、不祥事を起こし解雇された元日興証券の大阪事業法人部部員が、ミニコミ紙と共謀して、「日興は米国在住の顧客にインサイダー情報を流して取引させていた」と暴露。このことをネタに、日興証券を強請(ゆす)ろうとした事件だったという。
 すでに、表沙汰になっていたスキャンダルだけに、それほど慌てる必要があったとは思えない。しかし、日興は、総会屋の元締め的な存在からの紹介があったこともあり、小池との関係を深めていった。これが20年以上にわたる日興と総会屋との付き合いの端緒だった。

総会対策工作費用5000万円

 91年暮れになると、A氏は、新たな総会屋とのパイプ作りというミッションを抱えていた。この年の損失補填スキャンダルを受けて、日興では、高尾吉郎新社長の体制がスタートした。しかし大きな不祥事の後だけに翌年6月末の株主総会を、大過なく運営するのは容易でないと予想していたからだ。そして、A氏は、それまで付き合いがなかった総会屋B氏に、その旨を依頼した。このB氏こそ、「第2ルート」の主役だった。
 B氏は92年春、総会対策の工作費用として5000万円の資金を要求した。これに応じるため、A氏は、個人で日興クレジットから資金を借り入れた。日興クレジットが渋ったので、A氏は、副社長や役員の口添えを得たばかりか、担保代わりに、自宅の不動産登録済証を日興クレジットに差し入れて、ようやく借り入れに成功したという。
 その「勘定元帳」が私の手元にある。それによれば、A氏はこの年9月に4700万円、翌93年3月に2200万円の資金を借り入れている。これらの資金も、A氏はB氏に供与したという。
 この「勘定元帳」によると、A氏は94年10月にも、日興クレジットから5000万円を借り入れている。こちらはB氏のような総会屋ではなく、証券取引の損失回復を求める、稲川会に渡したものだった。
 筆者の手元の資料には、借り入れと同じ日付で稲川会系企業の幹部と交わされた「金銭消費貸借契約証書」が含まれている。その日のうちに、借り入れた資金を、融資の体裁をとって稲川会に交付したことが窺える。
 日興はすでに、稲川会への融資、ゴルフ会員権預り証の購入などで社会的に糾弾されていたが、その裏側で、引き続き、A氏を通じてこうした利益供与も行っていた。この借り入れでも、関係役員が日興クレジットへの口添えをしており、その事実は副社長クラスにまで報告されていたのである。
 そして、最初はA氏が個人名で借りた融資を、日興は組織として裏金″を作り、返済するという措置を取っている。A氏の返済が滞りがちになったことが理由で、日興の最高幹部の一人が関係役員に返済の肩代わりを指示したのだ。関係役員らは、ワラントやユーロ円債などの売買を通じた裏金作りを行い、この裏金を返済資金に充てている。日興は、1600万円(95年9月)、5000万円(同10月)、2100万円(同11月)、3000万円(翌96年1月)、2000万円(同2月)と5回にわたってA氏にかわって借り入れた資金を返済した。
 奇妙なことに日興は返済した事実を、A氏に伝えていない。関係者によると、このころ経営陣と関係が悪化していたA氏に、逆に金づるにされることを心配したからだというのだ。もはやできの悪いマンガというしかない。

「厄介ばらい」の裏金づくり

 ここで重要なことは、この裏金作りに関わった複数の人物がいまなお、日興コーディアルグループの幹部として君臨していることである。具体的には、現在の日興コーディアルグループ社長の有村純一氏もその一人だ。
「この第2ルート」に関する筆者の取材に、有村氏本人は広報を通じて「まったく存じておりません」と回答している。しかし氏は、裏金捻出のためにユーロ円債売買にあたった東京本社の窓口である、シンジケート部のライン部長だったのだ。そして、有村氏は、会社ぐるみの第2ルート隠しの中で、上の意向を受けて浜平氏に罪を受け入れ、会社の利益を優先するよう説得にあたった一人でもあったことを社内資料は示している。
 実のところ、総会屋や暴力団への供与は他にもある。刑事事件とならなかった「第2ルート」のほかにも別のルートがいくつかあった。このうちA氏が関連会社への出向後に立て替えていたものが94年以降の2年余りで、十数件、金額にして約6500万円に達していた。
 そこで、日興は98年9月、A氏が総会屋への利益供与事件で有罪判決を受ける直前に、その総会屋対策活動への私財供出や労をねぎらう意味で、再度、裏金を作り、4000万円程度を渡した。この原資は役員たちの報酬や退職金で、A氏との関わりの軽重を考慮しながら、10名弱の役員が、募金の形で資金作りに応じた。これに加えて、関連企業からも退職金とも手切れ金ともつかないお金を支払った。要するに、日興は厄介ばらいをしようとしたのである。今回、A氏にあらためて取材を申し込んだが、「退院したばかり、脳梗塞のリハビリ中なので、そっとしておいてほしい」と拒否された。

有村社長へのヒアリング

 資料には、「社内ヒアリング」というファイルが何冊もある。「営業特金」の問題について、社内の当事者にヒアリングを行ったメモである。その中で気になる人物が何度もヒアリングをうけている。有村現社長である。
 営業特金は、暴力団や総会屋、政治家への利益供与に比べれば反社会的な印象は薄い。しかし、この問題は、企業から大口資金を導入し、証券会社の都合で活況相場を演出したという点では、暴力団や総会屋への利益供与よりもたちが悪い。営業特金が91年に社会問題化した「損失補填」につながって市場の信任を損ねたという点でも、投資家にとってより重要な背信行為だったと言える。追って明らかにするが、現在の日興コーディアルグループのトップの中で、有村純一社長ほど、営業特金問題にコミットしてきた罪深い″人物もいない。
 営業特金の誕生のきっかけとなったのは、80年12月に国税庁が発出した通達だ。この通達は、信託銀行のファンドトラストを使った資金運用に関して、そこに組み込んだ有価証券の会計処理を特例扱いすることを認めた。「簿価分離」と呼ばれる会計処理である。たとえば、それまでは以前から保有している株式と同じ銘柄を購入した場合、企業は、保有していた株式の帳簿上の評価額を、新たに取得した株式と同じ価格に評価替えする必要があった。この評価替えを、ファンドトラストに組み込む株式に限り、これを免除する方針を打ち出したのだ。
 2年後、証券会社系列の投資顧問会社でも扱える「特定金銭信託」(特金)でも簿価分離が可能になり、こぞって企業は特金を設定するようになっていった。
 証券業界全体でみると、85年6月末に特金残高は4兆円を突破した。1年で倍増するというブームだった。さらに9ヵ月後には、残高が10兆円に達していたとされている。
 しかし、その背後で、早くから特金の商品性を問題視する見方もあった。本来、特金は、企業や金融機関と契約した投資顧問会社が、「一任運用」と呼ばれる委任を受けて投資戦略を決定し、有価証券の売買を証券会社に指示するのがあるべき姿である。しかし、投資顧問契約がなかったり、契約があっても形だけで実際は証券会社が運用を担当している「営業特金」が急増していると囁かれていたからだ。
 これは、実に、おかしなことなのだ。運用成績の向上が使命である投資顧問会社と違い、証券会社は売買手数料の確保を重視する。そのため証券会社が「一任運用」を受けると、売買手数料のために煩雑な売買を繰り返すことになるだろう。顧客にすれば、売買手数料がかさんだうえに、利回りが悪かったり、元本割れが起きたりすれば、踏んだり蹴ったりということになる。普通の企業ならば、そんな営業特金など契約するはずがない。
 それでも顧客が証券会社に「一任運用」で任せる「営業特金」が増えた理由は一つしか考えられない。契約の背後に、十分な運用利回りが確保される保証、つまり、「利回り保証」があるという理由である。そして、この利回り保証は、証券取引法で固く禁じられている。
 しかし、93年10月18日に当時シンジケート部長だった有村社長のヒアリング・メモにはこうある。
「88年5月以前のDにぎり(編集部注・利回り保証)の有無E 公的資金は利回り保証が常識だが、他の営業特金には経営の関与する保証はない。しかし電機メーカーC社、総合商社D社など、法人部が勝手に握ったものはあった」
 86年秋ごろから、事態を不安視した旧大蔵省は、実態を究明しようと証券各社に対するヒアリングを実施。ほぼ1ヵ月後、大手4社を含む証券会社22社に、口頭の「厳重注意」を与えている。
 だが、バブル初期の右肩上がりの株式相場の中で、証券各社が旧大蔵省の厳重注意を真面目に受け止めた形跡はほとんどない。むしろ、困難な顧客の新規開拓をしなくても、株式売買手数料をどんどん増やせる営業特金と、その運用資金を調達する転換社債発行をセットで勧誘し、4〜5%の利回り格差を利益計上するというような話がまかり通っていた。

特金キャンペーン

 日興は一応、「系列投資顧問会社への移管が原則」などとする営業特金の社内ルールを新設した。が、移管不能との理由がつけば、その特金は、社内に残された。ちなみに、日興の86年10月末の営業特金は、262口座、資金量で3200億円程度に達していた。
 しかも、その社内ルール設置後も、日興は大別して3回にわたって、組織的な営業特金の獲得キャンペーンをやっている。元日興副社長の平石弓夫氏は、筆者の取材に、「わが社だけ営業特金をやらなければ、信託銀行やライバル証券に根こそぎ顧客を奪われると思った」とふりかえる。
 社内資料によれば、最初のキャンペーンは、87年6月ごろのことだ。上場企業の営業窓口である法人部門ではなくて、株式本部が運用を担当するようになったのが特色だった。
 2度目は翌88年5月から翌月にかけて。このときは、日興が7月に創業70周年を迎えることから、2000億円の営業特金の獲得を目指すキャンペーンとした。前年秋のブラックマンデーによる株価の急落後、ライバルの山一証券が「ディーリング相場」と呼ばれた活発な売買を仕掛けたことも、日興が営業姿勢を強めた背景だった。日興は、山一が大手都市銀行などから大口の営業特金を獲得しているとみていた。放置すれば、山一に抜かれ、業界4位に転落しかねないと脅威を感じていた。
 3度目のキャンペーンは、89年4月からの3ヵ月間だ。1000億円の目標に対し、950億円を獲得した。この時は、4位山一証券を突き放して日興の3位の座を守るだけでなく、2位大和証券に追いつく狙いもあった。
 こうした日興の営業特金拡大策の渦中で、86年から91年にかけて営業企画部に所属し、「営業特金の元締め」と呼ばれたのが、有村現社長だった。
 当時の有村氏は、営業企画を担当する役員だった高尾吉郎氏(後に社長)や、営業企画部長だった平石弓夫氏(先述)らに仕えていた。法人部員の営業特金や売買手数料の獲得状況をまとめ、役員や部長を通じて法人部員の尻を叩く役割を担っていた。
 有村氏は前述の社内ヒアリングで、89年当時のキャンペーンに言及し「営業企画部は号令をかけるが、実際の運用には口出ししない」と自身の役割を認めている。この活躍ぶりが、高尾氏や平石氏の昇格の決め手になり、有村氏は目覚ましい勢いでエリートコースに乗り、出世階段を上り始めたのだった。

高級ホテルで補填案作り

 89年11月。「営業特金の元締め」と呼ばれ、獲得キャンペーンの旗振り役だった有村氏の任務が一変するできごとが起きた。ライバル大和証券の飛ばし事件の発覚である。そして、この事件を機に、旧大蔵省は同年末に、証券局長通達を出し、これまでとは桁違いに厳しい姿勢で証券会社に営業特金の解消を迫るようになった。
 旧大蔵省が求めた営業特金の解消法は、三つ。「一任運用」が認められる投資顧問付きへの移管、「利回り保証がない」という「確認書」の顧客企業側からの取り付け、そして文字通り営業特金をやめてしまう、このいずれかであった。
 このために、日興は多くの顧客企業に対し、損失補填を行うことを条件に協力を求めた。有村氏は89年中に、社内ヒアリングの結果を報告書にまとめ、トップに報告。早くも、この時期に問題の多いものを処理している。
 このとき、有村氏が名を馳せたのが、小池事件で有罪判決を受けた浜平氏と共同で獲得してきたという大手商社の元本200億円の営業特金である。
 このファンドは、他のファンドから巨額の含み損を抱えた証券を一時的に引き取る受け皿として使われたことから、社内では「ゴミ箱ファンド」や「ゴミだめファンド」と呼ばれていた。他のファンドの含み損の「飛ばし」をする役割を担っていたわけだ。評価損を抱えた証券を簿価で引き受けるのだから、わずか3ヵ月で50億円もの損失が出た。それを旧大蔵省の検査を回避するため「投資顧問付き」としたうえで、利益が出しやすいワラントの投入によって元本を回復し、商社に返却したという。

「本部握り」

 93年6月21日。前日発覚した野村証券の160億円に続き、日興にも170億円の法人向けの損失補填があったことを読売新聞がスクープ。この補填の温床となったのが、有村氏が「尻叩き役」と「幕引き役」の2役をこなした営業特金だったのだ。
 この補填の理由について、日興は当時、旧大蔵省、マスコミなどに対し、「営業特金の解約を求めるキャンセル料」「長期的な利益が見込めるとの判断で補填した」といった釈明を繰り返した。また、名古屋市の浅井岩根弁護士らが起こした日興役員らに補填金の一部(9億6000万円)の返還を求める株主代表訴訟でも、こうした説明を繰り返した。この裁判で、日興側は勝訴している。
 ところが、筆者が入手した資料は、当時の日興の説明が事実と異なっていたことを裏付けている。日興は、すべて「事前の利回り保証はなかった」としてきたが、これがまったくのウソだ。たとえば、日興が90年に、A、B、C、Dとランクを付けて補填の実施を決めた営業特金は、ほぼ例外なく利回り保証が付いていた。さすがに、書面での契約を交わしていたものは少ない。しかしランクAは「本部握り」と社内で呼ばれていた。これは、有村氏らに尻を叩かれた法人部門の役員らが相手企業の役員と口頭で「利回り保証」をしてきたもので、最優先での補填対象だったという。
 もっと悪質なものもある。90年中の営業特金の解消に失敗した、ある大手食品メーカーのファイナンス子会社のケースは、その典型だ。このときは、そもそも担当者レベルで書面による利回り保証をしていたので、当然、利回り保証がないという「確認書」の取り付けが難航した。そこで東京本社の指示で、大阪駐在の役員が「保証を反故にしない」ことを約した文書を出すことと引き替えに、「確認書」を取り付け、当時の大蔵省の追及を逃れていたというのだ。社内資料ではこうした件を「サイドレターあり」などと記録している。
 代表訴訟でも、この食品メーカーへの補填は、担当者の不正行為があったためのトラブル処理ということで凌いだが、実は二重の「利回り保証」をしていたのである。
 これらの虚偽の説明は、民事訴訟法によれば、日興が勝った代表訴訟を無効にし、再審に道を開く可能性がある。さらに、有村氏は当時、役員ではなかったが、実行にコミットしているため、連座して賠償責任を負う可能性が出てくる。
 ここで、営業特金をめぐる筆者の質問状と有村氏のやりとりを紹介しておこう。
問:(有村氏の)営業企画部時代からのテーマですが、会社として営業特金の導入・獲得、利回り保証の存在を否定・隠蔽してきた問題をいかがお考えでしょうか。
 これに対する、有村氏の答えは、
「営業特金について様々な問題が指摘されてきたことは記憶しております」
 というものだ。

不可解な買収劇

 紙幅も尽きてきた。最後に、有村氏が日興コーディアルグループ社長に就いて以降の重大な疑念を指摘しておきたい。
 焦点になるのは、ベルシステム24というコールセンター会社だ。この会社はもともとCSKの子会社だったが、04年8月の第三者割当増資の引き受けと、CSKからの株式買い取り、同9〜10月の公開買い付け(TOB)、そして05年1月に残された少数株主への現金交付などを経て日興コーディアルグループが非上場会社化・完全子会社化を実施した会社である。
ベル24の経営者にとって日興の傘下に入るのは、大きなメリットのあることだった。というのは、当時の大株主のCSKがベル24の経営陣の入れ替えを計画しており、経営権を失う瀬戸際に立たされていたからだ。最初の第三者割当によって、CSKの役員送り込みを拒否したばかりか、ソフトバンクBBの100%子会社だったBBコールの買収資金まで手当てできた。またソフトバンクBBもBBコールの売却により、「巨額の資金が調達できた」という。ベル24、ソフトバンクBBの2社にはメリットの大きいM&A(企業の合併・買収)劇だった。
 だが、日興は証券取引を本業とする証券会社である。普通に考えれば、一般事業会社のベルシステム24を総額で2400億円余りかけて完全子会社化・非上場化するメリットはない。重い償却負担を背負い込む話である。ベル24の実物資産は970億円程度しかない。BBコール買収で生じた無形固定資産(500億円)と残りの買収差額(940億円、営業権と考えられる)の合計、つまり1440億円の償却負担が発生する。一般的な償却年数の5年で処理するとすれば05年3月期の当期純利益の6割が消し飛んでしまうお荷物なのである。いったい、この買収で日興は何を狙っていたのか。
 一つのヒントは、日興が最終的な非上場化に際してベル24株を少数株主などから取得した株価(1株2万8000円)である。一方、日興のベル24株取得の平均単価は2万3660円。つまり、1株当たり4340円、全体で441億円の評価益が出る計算になるのだ。「この評価益のうち150億円程度が、日興の05年3月期の営業投資有価証券売買損益(241億円)の一部として取り込まれた」という内部告発が筆者に寄せられている。
 そして、もう一つのヒントは、日興がこの株式取得を、100%子会社である「日興プリンシパル・インベストメント」(NPI)のさらに100%子会社「NPIホールディングス」(NPIH)、つまり日興から見れば孫会社を通じて行ったと発表している点である。通常、孫会社は決算の連結対象である。しかし奇妙なことに、有価証券報告書では、日興は05年3月期決算で、この会社を連結しなかった。

「粉飾の疑いが濃い」

 重要な鍵を握る事実が、ベル24買収時のプレスリリースにある。NPIHは、「特別目的会社」(SPC)として創設されていたのである。やや専門的で恐縮だが、SPCは厳格な要件を満たせば、例外的に、非連結化を認められることがあるのが最大の特色だ。というのは、SPCは本来、不動産の小口化・流動化などに道を開くための会社スキームだからである。
 これらを総合すると、評価益という「いいとこどり」をするために、SPCという枠組みを悪用したのではないかとの疑惑が浮かび上がってくる。そんな実態を反映しない決算は、素人が考えても許されることではない。疑惑を解明しようと、筆者は有村氏と、中央青山監査法人の奥山章雄理事長(前日本公認会計士協会会長)に、それぞれ質問状を送った。奥山氏は、この7月から日興担当の「関与社員」に就いている。関与社員とは、監査証明に署名する最高責任者である。両者にはNPIHの決算書類の開示も求めた。
 戻って来た回答は、内容の乏しいものだった。まず有村氏は、「監査法人など外部の意見も踏まえて適切に処理しています」としたうえで、「(ご質問の件は、)日本会計士協会の監査委員会報告第60号に従い、連結対象にしておりません」と木で鼻をくくったような回答をファックスしてきた。
 この回答はなんら説明になっていない。というのは、60号は、原則として連結することを義務付けている規定である。例外として、資産流動化法に規定された不動産の小口化・流動化を容易にするためのSPCなどに限って、非連結対象化を認めている。ベル24は元来、上場していた株式会社であり、SPCでなければ小口化・流動化ができないような投資対象ではない。SPC本来の趣旨とは、随分違う。言い換えれば、有村氏は、なぜ、NPIHを非連結化しなければならないか納得のいく説明ができていない。
 次に、奥山氏だが、こちらは「監査法人としての秘密遵守規定に該当致しますので、お答え出来ません」という答えだった。さらに両者はそろって、決算書の開示を拒否した。
 筆者が意見を求めた二人の専門家は「明らかに会計の基準に違反している。『粉飾の疑い』は濃い」とコメントしている。

元社長がもらした後悔

 もう一度、思い出していただきたいのは、有村氏が89年当時、営業特金の処理にあたって、総合商社のファンドを「飛ばし」の受け皿にして社内で勇名を馳せたことである。「三つ子の魂」ではないが、有村氏は経営者になっても、タブーのはずの「飛ばし」に依存した経営をしていると言わざるをえないのだ。
 中央青山は、山一証券、カネボウなど過去の破綻企業の粉飾で、連結の外に負債や不良債権が隠蔽されていることを悉(ことごと)く見逃してきた監査法人だ。今後の展開次第では、有村氏だけでなく、奥山氏の責任も問われる場面があってもおかしくない。
 4代前の社長、岩崎p弥氏は、転出先のベンチャー企業の執務室で、筆者の取材に応じ、深い後悔の色を浮かべながら、
「実は、先輩たちに、会社を潰したのはお前(岩崎氏のこと)だって、よく言われるんだ。有村社長の生みの親と言える高尾、金子(昌資・現会長)両氏を社長に選んだことが間違いだったってね」
 とポツリと呟いた。